korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。

虐待されるとこの国を異邦人として生きることになる

 晴れ。身体がむず痒い。

 

 ついに本格的に花粉が飛び始めた。

 

 

      夢を見た

 また学校だ。そしてまた卒業というか最後の登校。

 

 荷物を持って帰る。1階入り口の吹き抜けになっている場所に来る。携帯(ガラケー)にメールが入る。かつての勤め先からのよう。もうそこにはいない、というようなことを返信しようとするが何故か文章がまともに打てない。仕方がないのでひらがなで何とか打って返信する。まともに返信できたのかどうかは不明だ。

 

 女子に携帯のことを聞かれる。画面が小さいので他人にはおすすめしない、とこたえる。あんたはどう思うの?、と聞き返される。

 

 原付スクーターで来ていたのを思い出し駐輪場に向かう。私のスクーターに誰かの自転車が立てかけてある。持ち主が来る。同じクラスの奴だった。もうひどいなあ、と言って笑う。

 

 この時期にスクーターに乗るのは寒い。防寒対策に雨具を着込むことにする。靴も変えるか、とそこで変えようと思った靴が自分のものでないことに気づく。靴の持ち主のカバンから勝手に取り出してしまったらしい。

 

 靴を返す。カバンの中をのぞくとトレーニング用具と運動で使う靴しか入っていない。(持ち主はボクシング部のようだ) シンプルで驚く。教科書とかはどうしたのだろう。

 

 持ち主が返ってきたので話す。同じクラスの人間だった。(終わり)

 

 

      思ったこと

 目を覚ます。消耗している。ここのところ消耗がひどい。

 

 そして考える。これまでなんとか「普通」になろうと努力してきた。けれどよくよく思うと私は暴力や無視や混乱などの中で育った。それが私の「普通」だった。それが私の血や骨になっている。

 

 それを無自覚に出してしまうと他人を傷つけてしまうし、トラブルになる。だから何とか折り合いをつけようと苦労している。いまだによくわからない。

 

 わかったのは「普通に」育った人とは前提からしてすでに違うということだ。

 

 たとえ子供時代が暴力やネガティブなもので満ち溢れていようと、それがその人を形作っている。そこは変えることはできない。そこを否定してはいけない。

 

 昔読んだ本の中に、虐待されて育った子供はその中での反応が身についてしまっている。それは訓練することである程度は治る。ただ完全に治ることはない。たとえて言えば新しい言語を大人になってから学ぶようなものだ、というようなことが書かれていた。

 

 (話が脱線しますが、たとえは便利。物事が一気にクリアになる)

 

 そういうことだったのか。あくまで他の土地のものとして「普通」を身に着けるのか。本当に異邦人なのだな。日本語お上手ですね、ってなものだ。

 

 「日本語がお上手」になるよりも異邦人として生きたほうが楽なのかもしれない。虐待の世界は嫌だが「普通」がいいものだとは到底思えない。「普通の国」の習慣や文化はわけがわからない。

 

 「普通」の世界からは距離をとる。それがトラブルを起こさないコツかもしれない。

 

 

 そんなことを考えた。とりあえず、洗濯物を干すことにする。それが一番大事。

 

 

子どもの共感力を育てる