korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。

あなたのためを思って、は誰のためにもならない

 晴れ。朝は寒い。

 

 しばらくすると急激に気温が上がってきた。

 

 

 

        思ったこと

 また思い出す。「あなたのためを思って」という言い方がある。自分はそれにずいぶんと苦しめられてきた。

 

 今思う。まったくためになっていないどころか有害だった。どうもそれは依存というもののようだ。また依存か。

 

 いや気持ちは十分すぎるほどにわかるんだけれども、実際に何かのためになるのにはしっかりとした道理というものがないといけない。トラブルがひどかったらなおさらだ。気持ちだけではダメだった。だから専門家に任せたほうがいい。

 

 そうでないと「親切」を受けた側がその人が抱えているトラブルと他人の気持ちという二つの重荷を背負わなければいけなくなる。そういうことを言う人は自身もトラブルを抱えていることが多い。自分のケアをしたほうがいい。でもそのことには気づかない。

 

 私がそうだった。他人の世話をしている場合ではなかった。道理に合っていない頓珍漢な助けで余計にトラブルが複雑になる。一緒に溺れてしまう。

 

 

 どうしてもそういうことがしたいならば、「あなたのためを思って」などという抽象的なセリフでなく、具体的に何が問題だと思うので何がしたい、と言わなければならない。それでもどうかと思うことも多いと私は思う。

 

 親切を否定するつもりはないです。こういうことを言うのはかなり罪悪感があります。けれど自分のまわりにはトラブルを抱えていてその自覚がない人(私も含む)や、親切を病的に勘違いしている人がたくさんいたのであえて書くことにした。

 

 自分のポイント稼ぎのために親切をする、その結果がどうなろうと知ったことではないという感じの人々。そういう勘違いの親切で人生が滅茶苦茶になることもある。まるで他の国に正義のためと言って攻め込むどこかの国みたいだ。

 

 

 他人に親切にする前に自分のケアをする。親切や罪悪感というのは想像以上にやばそうだ。思ったらなんでもすればいいというものではなかった。他の国には主権があるし、他人には人権や人格がある。そこを踏み越えていってはいけない。それに物事には文脈というものがある。

 

 うまく言えないけれど親切や罪悪感について何か壮絶な勘違いをしている気がする。それにうっすらと気づいてきた。

 

 自分のまわりの人たちががひどすぎなだけだろうか。

 

 私にとって大人になるというのは自分がろくでもないただの人間にすぎないと気づくことであったし、他人への「親切」に依存しない真の自己中とはどういうことかを知る旅でもあった。まだ道半ばだけれども。

 

 それに物事の流れがわずかではあるが見えてきたように思う。かなり劇的な展開。これも勘違いかな?

今週のお題「大人になったなと感じるとき」)