晴れ。寒い。今日から師走だ。もう涼しいというレベルではない。
洗濯物の乾きが露骨に悪くなった。移動させる必要がある。
思ったこと
夢を見た
誰かの部屋にいる。騒いでいる。ほかにいるのは音楽をやっている人ばかりのようだ。自分は同じように騒ごうとして、冷たい目で見られる。引っ張られずにそのままでいこう。
校舎内か。コピー機を探してさまよっている。
今週のお題について
今週のお題「感謝したいこと」
このお題について、思い出す。(かなり暗い話ですので注意です)
自分は、子供のころ親や親が入っている宗教団体に感謝することについて教えられていた。
でも今思い出してみるとそれは彼らの都合に合わせて考えるようにする訓練だった。
彼らは反省しないし謝らない。自分たちの失点につながりそうな状況になると謝る代わりに相手に感謝を要求する。
「私(我々)はお前のためを思ってこれをやったのだ。だからこれでいいのだ」そういうことらしい。
「我々は絶対に正しい」そういうことらしい。
でもその頃からだいぶん時間がたって考えてみると、自分が絶対に正しいと思うのは人間として当たり前のことだった(傲慢でも何でもない。そう思うように心はできている)。そのことでまわりに迷惑をかけたりうまくいかなくなるのを予防するために躾がある。そのことに気づいた。
外側の世界には自分とはまったく考えかたが違う他人が存在する。その人たちとどう付き合うか。という話だろうか。その時に自分が絶対に正しいとなってしまうとつらいことになる。
自分は誰かの考えや信仰を否定する気はまったくない。ただ迷惑なことは迷惑だと言う。
いったん絶対に正しいと全知全能気取り?をしてしまうと失敗する度にとりつくろわなくならなくなる。そのために嘘をついたり失敗を相手になすりつけなければいけないくなる。自分もまわりも大変につらい生きかたを要求される。
不思議なことに誰かや何かを絶対だ、としてしまうと、なぜか努力がまったく身につかなくなる。評価の基準を外側に作ってしまうと言葉や行為が自分のものでなくなる。何かを信じたりすがったりするのだってやりかたがあるのだろう。まずベースとなる自分をしっかりとする。
自分は別にスピリチュアルなことを言うつもりはないのだが、結果がちゃんと出るためには自分の心身を整える必要がある。自分の欲求などをはっきりとさせる必要がある。それは前回のブログでも書いた。
とは言っても他の人たちはここまで特殊な状況にはなっていないと思う。何を言っているんだ、という感じかもしれない。
心無い感謝は危険、というより最初から相手をコントロールしようとする悪意が存在していた、ということか。これを搾取というのだろうか。
その状況から何とか抜け出た自分は、いまだに社交辞令的な感謝の言葉やお世辞はまったくできないし、そういうことを言う相手を警戒する。言葉や行為が自分のコントロールから離れてしまっては何が起きるかわからない。そのつらさを身をもって体験したからだ。
最近読んだ本
この本は若いころから気になっていましたが、読むことができずにいました。
全体からキラキラしたオーラが出ていて近寄れませんでした。
しかし実際に読んでみると。「・・・全然キラキラしてねえ、というか何してんねん、あんたたちは」と突っ込みを入れまくりました。
ここでいう”あんたたち”とは主人公と作者のことです。
のびのびしすぎ。暗い文章をネチネチ書いている私とは大違いだ。
あ~面白かった。
ちなみに今回読むきっかけになったのはネットでとある年号の覚えかたを見て大笑いしたせいでした。それは
1919年ベルサイユ講和条約締結。 覚えかた:行く行く行っちゃうベルサイユ
でした。
何だと! ・・・読もう。何でだよ。軽すぎ。